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浦和地方裁判所 平成8年(わ)181号 判決 1997年8月19日

主文

被告人を罰金二〇万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、平成六年一〇月六日午後二時ころ、埼玉県浦和市《番地略》所在の当時の被告人方二階東側四・五畳間和室において、B子(当時三九歳)をその場に押し倒した上、その顔面等を手拳で多数回にわたり殴打するなどの暴行を加えたものである。

(証拠の標目)《略》

(法令の適用)

被告人の判示所為は平成七年法律第九一号による改正前の刑法二〇八条に該当するところ、所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で被告人を罰金二〇万円に処し、右罰金を完納することができないときは、同法一八条により金五〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により被告人の負担とする。

(弁護人らの主張に対する判断)

弁護人らの主張は多岐にわたるが、主な争点について判断する。

一  先ず、弁護人らは、本件は通常であれば起訴されることのあり得ない軽微な事案であると主張し、被告人も、判示日時場所において被害者に対し暴行を加えた事実は認めるものの、その態様・程度等について争うので、被告人が被害者に加えた本件暴行の具体的内容について検討する。

1  証人B子(以下「B子」という)は、公判廷において、本件暴行被害の状況につき、概ね以下の通り証言している。

昭和五六年六月一四日被告人と結婚式をあげ、五人の子供がいるが、被告人との生活に耐えられず、平成六年八月二〇日家を出て、東十条のアパートに住んでいた。同年一〇月六日午後二時ころ、JR武蔵浦和駅から自転車で、埼玉県浦和市《番地略》所在の、被告人と子供たちが住んでいた別所の家に行った。持って行った子供のおやつと衣類を置きに家に入り、居間に置いた。台所の様子をちょっと見て、そろそろ家を出ようとしたら、外で子供の話し声とAの鼻うたが聞こえた。それで、とっさに逃げようと思ったが、玄関に靴が置いてあるし、裏から出る場所はないし、どうしようかと思って、ちょっと居間に座っていた。玄関で、だれかいるのかというAの声がし、ずっと座って黙っていたら、Aが居間に入ってきた。Aは私を上から見下ろす形で、威圧的に、ちょっと偉そうな感じで私を見下ろしていたから、身動きできないで座っていた。被告人に二階に来いと言われ、被告人の後をついて二階に黙ってついて行った。その場で逃げようとしたら、Aに乱暴される気がした。常日ごろから、ちょっとしたことでカッとして私に暴力を振るってきましたから、私が逃げようとしたら、きっと、どういう行動に出るかと怖いものを感じた。二階は四畳半二間であるが、被告人は手前の方の部屋に置いてあった籐のひじ掛けいすに座り、私はその部屋の前の廊下に立っていた。Aが何かしゃべったと思うが、どういう事をしゃべったのか、私が何か答えたのかはよく覚えていない。それから、急にAが立って、正面から私の両肩を両手でつかんで、そのまま、奥の東側四畳半の押入のところまでずうっと押して行った。押入の前で、両肩をつかんだ後、私を倒した。私の右側のほうに、投げるようにして倒した。倒されるときには両肩をまだつかまれて、そのまま、倒された時点で手は放れたと思う。自分で転んだのではない。私は倒されて仰向けになり、背中を畳につけるような状態になった。それから、Aが私の顔面に、こぶしで殴りつけてきた。こぶしであることは見て分かった。両方の手で、顔の、目と、目の上と、ほっぺたと、口と、鼻、顔中を殴ってきた。私は突然だったので両手で顔を隠すようにして、覆うようにしてふさいだが、それでも構わず殴ってきた。こぶしで顔をずうっと殴られて、その後、そばにある棒状のもので私の体中をたたいてきた。私は、顔を殴られたりしているとき、いや、やめてということは言ったと思う。あと、コンタクトレンズをはめていたんで、顔面、目に、まともにこぶしでたたいてきたんで、目が失明するかと思って、コンタクトレンズをはめてるからやめてということは言ったが、それでも構わず殴りつけてきた。殴っているとき、被告人は、会社に行けない顔にしてやると言った。こぶしで殴られた後で、棒状のものでたたかれた。棒状のものは、硬い、木のようなもので、大体三〇センチくらいの長さだったと思う。明らかに手ではなかったし、鉄ほど硬いものでもなかったんで、木製の棒状のものと分かった。二階のその部屋は子供部屋にしてあったんで、子供の玩具、木でできた棒状の積み木玩具だったんじゃないかと思う。その棒状のもので頭と、肩とか、腰とか、おしり、背中、体のあちこちを殴られたと思う。顔をたたかれたかはよく覚えていない。こぶしで殴られた回数は二、三〇回くらいだと思う。数回とか一〇回じゃない。棒状のものでたたかれたものも多分、二、三〇回くらいだと思う。数を数えてたわけじゃないんで分からないが、かなり、あちこち殴られたっていう、何度も殴られた。そのように殴られて、ぐったりした。Aの足をつかもうと抵抗したと思うが、それ以上に、Aがこぶしで殴りつけてくるのと、そこにあったもので殴りつけてくるので、私は自分の顔とかを防御するのが精一杯だった。それから、私のはいていたスカートを脱がそうとしたが、ベルトつきのスカートだったので、なかなか脱げなかった。スカートが脱がせないんで、今度はパンティーストッキングを、足の先のほうを持ってむやみに脱がせた。はいているパンティーも無理やり脱がされた。そのときパンティーのわきが破れた。それから、私の会社に電話してくると、Aが言い、一階に行った。私は、そのとき、これから何をされるのかという恐怖で、逃げるなら今しかないと思った。Aに暴行されて、家から一歩も外に出さない、監禁されるような気がした。無理やりセックスされると思った。スカートの下は何も着けていない状態だったが、その場で下着とかパンティーストッキングを着けようと考えてる余裕はなかった。今だったら逃げられる、今、逃げようと思って、ベランダに出て、下を見下ろしたら、次女がいたので、お母さんの靴を持って来てというふうに言い、ベランダの手すりを乗り越え、屋根に足をかけて、手を放して隣との間の境目のブロック塀まで飛んで、その上にちょっと足を着いて、それから、地べたに飛び降りた。靴は、その後、次女が持って来てくれたんで、裸足で履いて、急いで自転車のところに行った。この別所のうちに来るとき、中に、印鑑とか、書類とか、IDカードとか、保険の仕事をする上で大事なものみんな入れていた黒いビジネスかばんと手提げを持っていたが、次女に、かばんを持って来てと言った。次女が家の中に入って行き、お母さん、かばんって、次女が持ってきたが、そのすぐ後ろからAが出てきたんで、そのまま自転車で逃げた。道の曲がり角で振り向いたら、Aがすごい形相で走って追いかけて来るのが見えて、もうわき目も振らずに真っすぐに駅に向かった。駅に着いて武蔵浦和駅の女子トイレで鏡を見たら、目が、顔面がはれていて、お岩さんみたいな感じになってて、唇も切れてたし、当時着ていたクリーム色に近いベージュ色のジャケットのポケットと、袖の、腕のほうに血がべっとりという感じでついていた。顔から出た血だと思う。ハンカチで顔をふいて、そのハンカチで顔を覆うようにして電車に乗った。東十条のアパートに戻り、ずうっと、しばらく、震えて泣いていた。暗くなってかばんがないことをまた思い出して、明日から仕事ができない、すごく困ると思い、取りに行った。一人ではとても行けないから、浦和警察に行き、警察の人に一緒についてきて欲しいと頼み、二人の警察の方が、じゃあというんで車を出してくれて、別所の家に行った。子供たちだけで被告人はいなかった。かばんはどこ探してもなかったんで引き揚げた。いったん、警察から出て、すぐ近くのロイヤルホストに入って、デザインスクールに行っていたときの友人であるC夫妻に電話を掛け、Cさんに、自分が、今、どういう状況かということを話し、Cさんは、かばんがなかったということで、絶対にもう一回取りに行くべきだということを言われた。Cさんは私のアパートに来てくれるというふうに言い、また警察に行って、同じ二人の警察官にお願いしてもう一度一緒に別所のうちに行った。被告人は家にいて、かばんを取り戻して、アパートに戻った。私がアパートに戻った後にC夫妻がアパートに来た。Cさんの奥さんが私の顔を見て、すごいひどい状態だと言って、泣いていた。二人に写真を撮ったほうがいいって言われ、私は離婚調停を起こそうと思ってましたんで、そのほうがいいかなって思い、Cさんに、ポラロイドカメラで写真を五、六枚撮ってもらった。カメラは最初にお部屋に持ってきてなくて、私の顔を見て、車に取りに行って、撮ってもらった。顔と腰と肩を撮った。腰と肩はあざができてたから、撮ったほうがいいと言われた。三枚は私が持って、その後三月一九日警察のほうに出した。

2  他方、被告人は、捜査段階においては、平成七年三月二七日の司法警察員による取調べにおいて、「私が住んでいる家の二階の六畳和室で、夫婦喧嘩から、口論となり、顔などを、何度も殴って、怪我をさせましたが、私がやった事に、事実、間違いありません。日時は平成六年一〇月六日午後二時ころです。私が妻を殴った理由は、妻が上京した当時通っていた甲野デザインスクールで妻と同級生だったCさん四四歳が妻B子と不倫関係にある事を問いただそうとしたところ、『事実無根だ』と妻は言って、知らないふりをしたのでカッとなって殴ったのです。この日、妻と、落ち着いて、その事等について話し合おうとしましたが終始、妻は、聞く耳を持とうとしない事で腹がたって、殴ったのです。最初に、左手の平手で妻の右頬を一発ぶん殴ったのをかわきりに、横に倒れた妻の顔を集中的に一〇数発ぶん殴った事は間違いありません。殴っている途中、妻が鼻血を流しているのも見ました。当時妻がしていた仕事は乙野生命の外交員で顔がいのちであり、仕事が、これ以上続けられないように、メチャメチャな顔にしてやれという気持は、この時はっきりと持っていました。私の暴力で妻が怪我をした事は判っています。立場的に弱い女性に対し、暴力を振い、怪我を負わせた事については、深く反省しています。」と述べ、平成八年一月三〇日逮捕された際の検察官による弁解録取において、「暴行については右手でB子の肩を押してその場に押し倒し、その後一〇回くらいはB子の顔を殴りました。ただ、私の記憶では拳骨ではなく手の平で殴ったように思います。当時、B子は家を飛び出していて、私との離婚を望んでいました。この時は家に来た彼女に彼女の浮気について問いただしているときに彼女が浮気を認めなかったことから腹が立って彼女に暴力を振るった」と述べている。

また、公判廷では、冒頭手続の意見陳述において、「私は、平成六年一〇月六日午後二時ころ、浦和市《番地略》の当時の私の自宅で、妻であるB子の顔面を平手で、正確な回数は覚えていませんが数回往復ビンタしました。拳骨で殴ったことも一、二発あるかもしれませんが、はっきりしません。しかし、起訴状にあるように『手拳で多数回殴打』したという事実はありません。起訴状には『同女をその場に突き倒した』とありますが、私が妻の肩付近を手で押したところ、自分が部屋にたたんで積んであった布団の上に座り込むように倒れ込んだのです。」と述べ、また手続更新の際の第二回公判において「『手拳で多数回にわたり殴打』とありますが、この様な事実はありません。私が、手拳で殴打したのは一、二回です。あとは、平手で往復ビンタをしただけです。また、B子を『突き倒した』とありますが、わたしたちの距離は接近していたので、これは表現が違うと思います。私は押しただけです。」と述べ、更にその後の公判において、次のとおり供述している。すなわち、平成六年一〇月六日、D子とE子の乙山町保育園で運動会があり、その日は会社を休み、朝から運動会に出ていた。午後二時過ぎ、子供達を連れて帰宅し、家に着いたときに、B子が家の中にいることが分かった。それで、どうしたんだというふうに聞いた。仕事の都合で行けなかったんで、せめて子供たちの顔だけ見て帰ろうというふうに、最初言った。八月二〇日から、家を出てから、どこで、どんな生活をしているのかについて尋ねた。答えは、相も変わらず、友達のところを転々としているというふうに答えていた。最初は一階の居間で、話をしていたが、子供が下校する時間帯もあったので、そういう話を、子供を前にしたくなかったんで、二階に上がろうということを、彼女に促した。成田ビューホテルの件や、八月二〇日以降の泊まってる場所などについて聞く目的で、二階に上がった。二階で、話を切りだしたとき、最初はこう、普通の会話で、話をした。途中から、余りにも、うそばっかりつくので、つい興奮した。うそばっかり言ってないで正直に答えろと彼女に迫ったら、私はうそは言ってないと、私の言うことをあなたはどうして信じないのかということを、逆に責めるような形で返してきた。結局、それで、手を出した。この時B子は、二つの四畳半の和室を遮るふすまの前辺りで、片方に寄せられていたふすまを背にし、私はB子の方を向いて立っていたが、彼女のほうが後ずさりという形で、隣の部屋に行こうとかそういうことじゃなくて、下がっていった。その東側の四畳半の和室に布団が畳んで、重ねてあった。B子は積んである布団を背にして、自分のほうを向き、そのB子のほうに正面から向かっていた。そこで、余りうそをつくなということで、一発平手で、ほっぺたをパチンとやった。そしたら、彼女もおうむ返しで、私に向かって一発私の左ほおをたたいた。そこで、私も、ついかっとなり、左手で彼女をこう、左の手で肩のこの辺りを押すような形になった。B子は布団にもたれかかるような、ずずうっと、こう座るというか、もたれかかるようにして、あおむけの状態に倒れた。それで、覆いかぶさるようにして馬乗りになり、それで、まあ、げんこつも一、二発程度たたいて、あと、平手で数発たたいた。ほっぺた中心にたたいた。両ほおを左手と右で往復びんたみたいな形で。げんこつも、一、二発使った。左目の下のほおの辺りをねらった。うそばっかついて、いると、あなたは、卑しくもカトリック信者であって、なんでそんなおれにうそをつくんだと、あなたがやっている行為というのは、一体何なんだということを彼女に向かって言った。彼女は、私を信じてくれと、私は絶対あなたに対してうそは言ってないんだと、いうことを言った。会社に行けないような顔にしてやるとか、そういうようなことを言ったかも知れませんけども、そこまで記憶にない。殴っている最中、B子から、コンタクトレンズを入れているから、目だけは殴らないでというふうに言われた。それから、目を避けてほっぺたを殴った。B子を殴ったのは、手で、木の棒を使ったということはない。鼻血は出ました。肩を殴った覚えはないと思う。腰を殴った記憶はない。一番熱を上げて殴っている最中だと思うが、B子のパンティーやパンストを取った。下着を取れば、逃げないだろうと思った。そのとき取ったパンティーやパンティーストッキングは、二階の部屋に置いていった。B子も殴られたくないために私の手をつかんで防御の姿勢をとり、最後は仰向けから、半回転して、うずくまり、みのむしかかめみたいな形になった。殴っている時間は二、三分じゃなくて、五、六分間と思う。それは、僕が自分で日記を書いておりますので、そういうふうに記憶している。警察の取調べも受けて、それに答えています、そう。もう、こんな殴ったところで、彼女が口割るわけがないし、暴力に訴えても、どうしようもないなというふうに、自分自身、たたくことに、むなしさを感じましたので、やめた。やり過ぎたなという気持ちはあった。まあ、もう少し、やっぱり冷静になって、暴力という手段でなくて、話し合うべきだったと思う。まあ、結果論ですけれども、そういうむなしさと、反省のものはあった。殴り終わってから、そういう事実は、ほんとはないが、どうしても口を割らしたいということで、あなたとCという男が成田ビューホテルにいるのを見たという人がいるというふうに言った。これに対し、ああ分かった、あなたの友達のFさんという人でしょう、私のほうからFさんに聞いてみるわというふうに、彼女は言った。その後、B子のほうから、こういう顔になってしまって、とても会社に戻れないから、あなたのほうからGさんのほうに電話してきてくれというふうに言われた。それで、一階に行って電話して、二階に戻ろうとしたら、本人が下にいて、次女のD子に、お母さんの靴持ってこいって大声で叫んでいるのを聞いた。外に出てみたら、自転車で走っていくのを見た。追っかけたが、どんどん距離が離されますので、追っかけるのをあきらめた。B子が行ってしまったあとに、バッグを三つ置いていったことに気付いた。一つは乙野生命の保険の営業用のかばんで布団の下に隠した。あと二つも、その辺に置いて隠した。当日休みましたので、残務整理がありましたから、出勤した。残務整理を終えて八時か九時ごろだと思うが会社から帰ってきた。子供のほうから、警察の方とお母さんが来て、それでどうしても、お母さん、かばんがほしいということで、困ってるから、警察のほうに連絡してくれと言うことを、子供に警察のほうから言づけがあったと。浦和警察に電話した。奥さんが、かばんがなくて、一生懸命探してると。それで何とか、隠してることは分かるから、返してやってくんないかというやり取りがあった。そのあと、警察の人とB子が来て、B子に営業用のかばんを返した。バッグを取りに来るのに、警察の人をわざわざ連れてきたことについて、一人では、やっぱり来れないっていうようなものがあったから、警察と一緒に来たと思う。警察官は、B子が一人じゃ怖くて来れないというんで、来たというふうに言っていた。

3  そこで、本件暴行の前後の状況を含む、犯行の具体的内容について検討する。

先ず、B子は、前記のとおり、別所の家の二階東側四・五畳間和室の押入前で仰向けの状態で馬乗りになられて被告人から顔面等を殴打された、まともに目を殴ってきたのでコンタクトレンズをはめていたため失明すると思い、コンタクトレンズをはめているからやめてと言った、被告人からパンティーストッキングやパンティーを取られた、被告人が電話を掛けるため階下に降りたときに二階ベランダから逃げた、自転車に乗って逃げるB子を被告人が追いかけてきた等と供述しているところ、被告人も、仰向けになったB子の上に馬乗りになって顔面に暴行を加えた、暴力の最中にB子からコンタクトレンズをはめているから目はやめてと言われた、B子が逃げられないようパンティーストッキングやパンティーを脱がせた、B子の会社に電話をかけるため階下に降りたところ、B子が次女に向かって靴を持ってくるよう叫んでいるのが聞こえてベランダから逃げたのだと思った、自転車に乗って逃げるB子を追いかけようとした等と述べていて、両者の供述は右の限度においてはほぼ合致し、関係証拠とも符合するものであって、両者の間に右のような言動があり、被告人がB子に暴行を加えたことについては間違いのない事実として確定できる。

ところで、弁護人らは、B子の供述のうち、「棒状のもの」を使用しての暴行を被告人から受けたことや、パンティーストッキングやパンティーを被告人に脱がされた後強姦されるのではないかとの恐怖感を抱いたとの心理状態等について、捜査段階での供述と公判供述との間に不自然な変遷が認められ、また手拳で殴られた回数について、手拳と平手とではどちらが多かったかと問われたのに対し覚えていないと述べるなどその信用性は著しく低いと主張し、被告人も、公判廷において、B子の顔面を左手の手拳で一、二発殴打したが、それ以外は平手での往復ビンタであり、その回数は併せて数発で一〇回も殴打していない、また、B子を突き倒したのではなく、肩を押したところ積み重ねてあった布団にもたれかかるようにして、ずり落ちるようにして仰向けになったと供述し、前叙B子の供述とは相当異なる内容となっているので、本件暴行の具体的状況について更に検討を加えることとする。

B子は、被告人から受けた暴行の状況について、前叙のとおり詳細かつ具体的に供述し、特に不自然、不合理な点は認められないばかりか、供述内容は関係証拠によって十分裏付けのあるものというべきである。すなわち、Cが本件暴行直後のB子の受傷状況を撮影した写真三枚(平成八年押第二〇一号の1ないし3、以下「本件写真」という)は、B子が本件で被告人から相当激しい暴行を執拗に受けたことを直接かつ明白に示すものである。右写真三枚は、B子及びCの各証言によれば、本件犯行当日の夜、当時B子が居住していた丙川マンションにおいてCが同人のポラロイドカメラを用いて撮影したB子の顔、肩、腰の写真であるとして提出されたものであるが、これらによれば、B子の顔は、両ほお、両瞼が腫れ、左瞼は紫色に変色し、左の肩の少し上の部分も腫れて赤紫色になっており、鼻の付け根の右側にも赤紫色の変色が見られ、左ほおが赤く変色し、右ほおの右目尻の少し横から斜め下にかけては紫色の痣状になり、あごも口の下の右側が赤くなっていることが認められ、左肩、左の二の腕、右腰、右肘から手首に至る上半分部分にも一部紫色ないし赤紫色の変色が認められ、肩には線状の傷があり、うち少なくとも一本は点線状になっていること等の受傷状況が認められる。そして、本件写真を拡大鏡でさらに仔細に観察すると、瞼の紫色に変色した部分や、ほおの赤く変色した部分等には毛細血管が内出血した様相を呈している箇所があり、肩の線状の傷のうち少なくとも一本は点線状になっていて表皮剥離の様相を呈していること、両瞼、両ほお骨部、左眉の上の部分等ティッシュペーパー等を入れて腫れを仮装することの不可能な部位にも腫れが認められること等からすると、これらは弁護人提出の弁護人Hの顔面をメーキャップにより受傷を作出したものとは明らかに異なるもので、弁護人の主張するような単なるメーキャップによるものとは到底認められない。弁護人は本件写真のB子の目に腫れが見られないということを根拠に本件写真はメーキャップした容貌を撮ったものである旨主張するが、殴られたことによるB子の容貌の変化については、被告人自身において、「B子からこんな顔になってしまって、とても会社には行けないからと言われて、会社に電話してやった」等と述べていて、当時B子が人前に晒すことを憚る程の状況にあったことを前提として行動しており、また証人I子は、本件当日と思われる午後七時ころB子に会った際、同女の目のところが腫れて紫色っぽくなっていた旨を述べ、当日別所の家にかばんを取りに行くB子に同行した警察官八木賢も、同女の顔が目からほおにかけて腫れていた旨を述べている上、メーキャップにより受傷状況を作出するのであれば顔面だけで十分であり、わざわざポロシャツを脱がなくては撮影できない肩や腰の部位まで作出する必要はないし、肩の傷を撮影した写真を見ると左の二の腕もわずかに紫色に変色し、腰を撮影した写真を見ると右肘内側も紫色に変色しているが、このような微妙な変色までを殊更に作出する必要はさらにないと見るのが自然である。

また、本件写真を撮影したCは、本件当日の平成六年一〇月六日に使用したポラロイドカメラのフィルムは、同年八月の中ごろから後半にかけて買った、買って間もなく、B子さんのことが起こって、手元にあった買い置きのフィルムを使用したものである、ポラロイドカメラのフィルムは、一つのカセットにフィルムが一〇枚入って、それがラミネートパックされたものが三パック、まとめて一つの紙の箱に入ったものをいつも買っていた、一〇月六日の時に、フィルムは、パックになったものを封を破って、カメラに入れて持って行った、三枚の写真にはいずれも「04442058061-2W」という数字が印字されているが、この数字については、フィルムのパックに日本ポラロイド株式会社のフリーダイアルがあり、番号が書いてあったので聞いて調べたところ、頭の数字三桁の「044」と書いてあるのは、04が四月、次の4が九四年の製造ということで、044で九四年の四月に製造した、これは海外で製造するんで、国内に入ってくるのに四ケ月ぐらいのクリアランスがあるから、大体八月には入ってるということが分かった旨述べ、本件写真裏面に印字されたロット番号によって本件写真のフィルムが平成六年八月頃の販売にかかるものであることが判明したことが認められるから、右は平成六年八月に近接した日時に本件写真が撮影されたことを強く推認させる。

以上のとおりで、本件写真は本件犯行直後に本件被告人によるB子の受傷状況を撮影したものと認められ、本件写真に表れた、顔面が腫れ、赤色や紫色ないし赤紫色に変色している状況や、肩、腰等も紫色になり、肩には線状の傷も認められる状況は、B子の前記のような必死の逃走状況や、営業上不可欠なかばんを取りに戻るのに一人では行けず、警察官に同行を依頼した事実等と相まち、ほぼB子が供述するように多数回にわたって相当激しい暴行を受けたことを裏付けるに十分である。

右に対し、被告人は、司法警察員による取調べにおいては、「横に倒れた妻の顔を集中的に一〇数発ぶん殴った」(「ぶん殴る」という表現は、通常手拳を用いての殴打を意味する)とあり、検察官による取調べにおいては「暴行については右手でB子の肩を押してその場に押し倒し、その後一〇回くらいはB子の顔を殴りました。ただ、私の記憶では拳骨ではなく手の平で殴ったように思います。」とあって、捜査段階においてB子を倒したか否か、殴打の回数や手拳を用いたか否か等の点につき変遷が認められるところ、被告人は、公判廷において、警察での取調べについては、浦和警察署の小倉光男巡査部長(以下「小倉」という。)が、「奥さんは、二〇数発殴られたと言っているんだ。自分の経験からして、こういうものは、殴った方は少な目に言うし、殴られた方は多めに言うものだ。だから大体その中間くらいが妥当な線ではないか」と言い、調書に「一〇数発」と書いたと述べ、検察庁での弁解録取においては、検事が逮捕状を読み上げ、「言いたいことがあれば言ってくれ」と言うので、「書いてあることは事実と違います」と言って、手拳ではなく往復びんたで叩いたのであり、回数も数回だ、後遺症についてもこの時初めて聞いたと言った、「同女の肩部を手で強打してその場に転倒させた」という箇所についても、手で押したけれども、転倒させるほどではなかったと言い、具体的にどうやったかをジェスチャーで示し、それに、後ろに布団が積み重ねてあり、B子はそこに倒れ掛かるようにして倒れたことも説明した、署名するように言われ、弁護人と連絡を取りたいと拒否したが、「言ったことが事実なら問題ないだろう。署名押印しなければ、弁護人に連絡を取らせないぞ」と言われたので応じた、検察官から調書を読んで聞かせてもらったが、調書に「一〇回くらい顔を殴った」と書いてあるのは気付かなかった、などと述べている。しかし、被告人が公判で述べるように警察でも検察庁でも殴った回数をめぐり取調官とやり取りを交わしたのであれば、回数についての記載には関心を持つ筈であって、特に検察官に対する供述調書(以下「検面調書」ともいう。)に右述の記載がなされたことに気付かなかったとの弁解はいかにも不自然である。また、「その場に押し倒した」との記載がなされていることについては、「言ったことが事実なら云々」と署名指印を求められて、結局これに応じたことのほかは何ら弁解していないものである。被告人の弁解録取を行った浦和地方検察庁の渋谷卓司検察官(以下「渋谷」という)は、公判廷において、犯行態様について、被害者を押し倒したのではないかというふうに自分のほうから押しつけたというようなことはしていない。弁解を聞く段階なので、被疑事実を聞かせて、それに関して、被告人がどういう弁解をするかということを聞いて、そのとおり録取しただけである。殴った回数については、手拳ではなく平手だ、回数は一〇回くらいというふうに被告人のほうから述べた旨明確に証言しているのであって、右検面調書には実際に被告人の述べるとおり「手の平で殴った」と記載されていることからも、少なくとも右検面調書の記載は被告人の述べたとおり録取したものであることが窺われる。そうとすると、被告人は、捜査段階において、任意な意思に基づき、まず警察の取調べでは、「倒れた」妻を「ぶん殴った」旨供述し、次いで検察庁においては、「押し倒して」「拳骨で一、二発、あとは平手で一〇発くらい殴った」旨供述するという変遷を経て、公判に至り、「倒してはおらず、手拳で一、二発、あとは平手で殴ったがその回数は併せて数発で、一〇発も殴っていない」旨述べて、全体として悪質性を減ずる内容へとさらに変遷していることが認められる。また、被告人の公判供述の内容からみても、被告人は、B子と会話をしていた時間を除いた、正味暴行を加えていた時間は五、六分であったと明確に述べているが、右は決して短い時間ではないことから、その間の暴行が被告人が述べるように数回の殴打にとどまるとは到底考え難く、被告人自身も、ああ、やりすぎたなという気持ちはあったと述べていることからみても、むしろ被害者に対し多数回の執拗な暴行を加えたことを推認せしめるものであり、以上のほか、本件写真によるB子の受傷状況等をも併せ考えると、被害者を手拳では一、二発、平手と併せても数発殴打したにとどまる、棒状のもので体を殴ったことはないとの前叙被告人の供述部分は、到底信用できないと言わざるを得ない。

また、B子が倒れた際の状況についても、実況見分調書の作成者として公判廷で証言を行った小倉は、現場に行ったときに、被告人の説明を受けなければ理解できないもの、見分できないものとして、長机様のものがあり、事件の当時には長机はここにはなかったのですと、そういう説明があった、ほかは、記憶にありませんと述べ、被告人から本件当時現場に布団が積み重ねてあったとの説明を受けたとは一切述べていないこと、B子の証言はもとより、被告人自身の捜査段階における供述も含めて、B子が積み重ねてあった布団にもたれかかるようにして倒れたとの被告人の公判供述に符合する供述をした形跡はなく、むしろ、被告人が、殴打の回数、手拳か否かの点について弁解しながらも、押し倒した点は自認していた前記検面調書が存在すること等に照らしても、この点についての被告人の公判供述も信用できない。

以上のとおりであって、関係証拠によれば、被告人はB子の肩をつかんで床に押し倒し、仰向けに倒れ、殆ど専ら防御するのみで無抵抗の同女の顔面を両手の手拳でほぼB子の供述する程度多数回殴打し、さらに棒状のもので同女の肩、腰を相当回数強打したこと、B子がコンタクトレンズをはめているから目はやめてと言ったこと、被告人がB子のスカートを脱がせようとした後、パンティーストッキングとパンティーを脱がせたこと、被告人がB子の勤務先に電話をかけるため階下に降りた隙にB子はスカートの下には下着を全く着用しない状態でベランダから外に脱出し、裸足のまま靴を履いて自転車で逃げたこと、被告人が逃げるB子を走って追いかけたこと、その後B子は別所の家に置いてきたかばんを取りに行ったが、再度同様の危害を加えられることをおそれて、一人ではとても行けずに警察官に同行を求めたこと等の事実が認められ、被告人がB子を押し倒し、無抵抗の状態にあった同女の顔面、肩、腰等を手拳や棒状のもの等で多数回殴打したとの判示暴行の事実は優に認定できるところであって、執拗かつ悪質な犯行といわざるを得ない。

二  本件逮捕、勾留が違法であるとの主張について

1  関係証拠によれば、本件捜査及び起訴に至る経緯等は以下のとおりである。

B子は平成七年三月八日浦和警察署に対し本件暴行による被害申告をし、同月一九日Cと連名で被告人を傷害の罪で告訴した。同日小倉は別所の家を訪れ、被告人に対し、本件暴行事件について取り調べる旨を告げた。そして、同月二七日午後一時ころから四時ころまで浦和警察署において、本件について被告人の取調べが行われた後、同日午後四時三五分ころから同四時五七分ころまでの間別所の家において、被告人立会いの下で実況見分が行われた。その後、被告人は同年四月末ころ、小倉から出頭要請の電話を受け(被告人は、四月末から毎日、午前七時と午後一〇時に小倉から電話がかかってきたと供述している)、子供に応対させて居留守を使ったり、「逮捕でも何でもしろ。」と言うなどしてこれに応じようとしなかった。また同年五月中旬ころ、浦和警察署から同月一七日午前九時に出頭を要請する呼出状を受け取ったが(被告人は、この呼出状は小倉が被告人方に持参したと供述している)、これにも応じず、小倉に対し、「五月一七日は都合があって行けない、今回のこの暴行傷害事件については、今年(平成七年)の四月に親族も交えて話し合いをした際に、自分の兄がB子の父を通じて被害の取下げをしてくれるようにお願いをしている、そのことについては、五月一八日に、自分も離婚調停で会うときに本人に直接確認するつもりである、本件は去年一〇月六日の事件だけれども、事件後の同月八日にはもう出社していると聞いて安堵していた」という内容の手紙を出した。同年五月三〇日、被告人は浦和警察署から再度六月二日午前九時に出頭を要請する呼出状を受け取ったが、これには「*数回に亘る出頭要求に応じない場合は強制捜査もやむを得ません」との記載があった。翌三一日被告人はHの事務所に右呼出状を持参して相談したが、同弁護士は「日本の警察は、裁判所に請求して簡単に逮捕状を取れる。甘く見るんじゃないよ。必ず来るよ。この件は一切私に任せて、何かあったら私に相談し、警察から何か言ってきても、一人で行ってはいけないよ。」と言い、警察から取調べの要求があれば、弁護士立会の下で取調べを受けるとの弁護方針を立て、同日被告人はHを本件の弁護人に選任した。Hは翌日小倉に電話をかけ、「自分が取調べに立ち会うという条件で本人を同行する、六月二日は差し支えるので日程の調整をしたい」旨伝えたところ、小倉は上司と相談すると返答し、Hは六月二日付で小倉宛に右電話の内容を確認する「A氏に関する件」と題する書面を送付した。同月中旬ころ浦和警察署の高橋と名乗る刑事からHの事務所に、「先生の立会で取り調べる必要はない」と電話があった。

同年八月初旬ころ、浦和地方検察庁(担当者は上冨敏伸検察官、以下「上冨」という。)から被告人に対し出頭を要請する呼出状が送付された。被告人は、同月一七日、Hの事務所に右呼出状を持参したところ、Hより「私が上冨検事に連絡して、弁護人の立会のもとで取調べに応じる、もし一人で来いというのなら、弁護人としてAさんを行かせない、と伝えます。また呼出しが来ても、一人では行かないでください。」と言われた。Hは、その日のうちに上冨に電話をかけて、被告人の取調べに立ち会うことを認めること、今後も被告人の弁護人として活動するから連絡は自分宛にするよう要請するとともに、同月一八日付で同検察官宛に右電話の内容を確認する「A氏の件」と題する書面を送付した。なお、被告人は、同八月新潟に転居した。

渋谷は、上冨から本件を引き継ぎ、平成八年一月二二日被告人に対する傷害の被疑事実による逮捕状の発付を浦和簡易裁判所に請求し、同日逮捕状が発付され、同月三〇日午前八時四二分被告人は新潟市の当時の被告人方先路上において右逮捕状により逮捕された。渋谷は被告人から弁解録取を行い、弁解録取書を作成し(これが前出の検面調書である)、同日浦和地方裁判所に被告人の勾留を請求した。他方渋谷から被告人を逮捕した旨連絡を受けたHは、裁判官に対し勾留質問の際に立会うことを求めたが認められなかった。被告人は勾留質問調書についての署名指印を拒否し、同日勾留状が発付され浦和拘置支所に勾留された。翌三一日、Hは浦和拘置支所で被告人と接見したが、被告人は、同日付けで、取調べに弁護人が同席することあるいは弁護人が供述調書等の内容を予め確認することを要求し、右要求が受け入れられないときは一切の取調べを拒否し、以上が受け入れられないまま作成された供述調書等には署名押印を拒否する旨の「通知書」を作成するとともに、Hからの、取調べにおいては弁護人が同席することあるいは供述調書等の内容を弁護人が予め確認することを要求し、右要求が受け入れられないときは一切の取調べを拒否し、以上が受け入れられないまま作成された供述調書等には署名押印を拒否するという助言をし、被疑者はこれを了解した旨の「申入れ書」を作成し、これらを渋谷に提出した。

同年二月二日、渋谷は被告人の取調べを行うため浦和拘置支所の取調室に赴き、被告人も取調室まで来たが、この時は雑駁な話をしただけで供述調書は作成されなかった。同月六日は被告人は拘置所の房から出ることを拒否し、翌七日にも出房を拒否し、取調べは行われなかった。同月一三日は被告人は取調室まで出てきたが、同月七日付で弁護人らが告発した、平成七年三月一九日にCが被告人に対し右前腕擦過傷・打撲の傷害を負わせた事件の参考人としてであれば取調べに応じるが、本件の被疑者としては弁護人の立会なしでは取調べに応じない旨主張し、取調べは行われなかった。被告人は同月一五日出房を拒否し、被告人に対する取調べは行われないまま、翌一六日本件について浦和地方裁判所に対し公訴が提起された。(なお、Hは前記被告人が勾留された翌日の同年一月三一日、勾留の裁判に対する準抗告を申し立てたが同日棄却決定がなされ、同日勾留理由開示を申し立て、同年二月二日勾留理由開示公判が開かれたが、勾留理由開示に先立ち、被告人により二名の弁護人が新たに選任された。その後、弁護人らは同月五日一回目の勾留取消請求を行ったが翌六日却下決定がなされ、同月七日右却下決定に対する準抗告を申し立てたが同日棄却決定がなされ、同月一三日右準抗告棄却決定に対する特別抗告を申し立てたが同月一五日棄却決定がなされた。また、同月七日勾留期間を八日間延長する決定がなされ、弁護人らより同月九日右決定に対する準抗告の申し立てがなされたが同日棄却決定がなされ、同月一六日右棄却決定に対する特別抗告を申し立てたが同月二三日棄却決定がなされた。公訴提起の翌日である同年二月一七日、弁護人らから一回目の保釈請求及び二回目の勾留取消請求がなされたが、同月二〇日いずれも却下決定がなされ、同月二二日右各却下決定に対し準抗告をそれぞれ申し立てたが、翌二三日いずれも棄却決定がなされ、同年三月一日右各棄却決定に対する特別抗告がそれぞれ申し立てられたが同月一九日いずれも棄却決定がなされた。同年三月一五日弁護人らから二回目の保釈請求がなされたが同月二二日右却下決定がなされ、同月二三日右却下決定に対する準抗告を申し立てたが、同月二五日棄却決定がなされた。同年三月二五日第一回公判が開かれ、同日弁護人らから三回目の保釈請求及び三回目の勾留取消請求がそれぞれなされたが、同月二九日いずれも却下決定がなされ、同年四月二日右保釈請求却下決定に対し抗告が申し立てられたが、同月九日棄却決定がなされ、同月一六日右棄却決定に対する特別抗告の申し立てがなされたが、同月二六日棄却決定がなされた。同月一〇日一回目の勾留期間更新決定がなされ、弁護人らより同月一七日右決定に対して抗告を申し立てたが、同月二二日棄却決定がなされ、同月二九日右棄却決定に対し特別抗告の申し立てがなされたが、同年五月一三日棄却決定がなされた。同年四月二六日弁護人らから四回目の保釈請求がなされたが、同年五月七日却下決定がなされ、同月一三日右却下決定に対する抗告が申し立てられたが、同月一五日棄却決定がなされ、同月二一日右棄却決定に対し特別抗告の申し立てがなされたが、同月三一日棄却決定がなされた。同月一〇日二回目の勾留期間更新決定がなされ、同月二〇日右決定に対し抗告の申し立てがなされたが、同月二四日棄却決定がなされた。同月一六日弁護人らから、五回目の保釈請求がなされ、同月二七日、弁護人ら申出にかかる身柄引受態勢等を条件として保釈許可決定がなされ、その後同年七月一七日弁護人らから保釈の指定条件の変更を求める申立てがなされ、同月二二日、制限住居を被告人が逮捕当時に居住していた新潟市所在の住居に変更すること等を内容とする決定がなされた。被告人は平成七年五月三一日前叙のとおりHを弁護人として選任したが、その後捜査段階で二名の弁護人を選任し、更に第一回公判後に一三三名の弁護人を選任し、合計一三六名の弁護人が選任されたが、うち一名は平成八年五月二一日付で辞任している)。

2  そこで、弁護人らは、被告人の本件逮捕・勾留は法が定めた逃亡のおそれや罪証隠滅のおそれもその必要性もないのに、弁護人の立会を排除することを目的としてなされた違法、違憲の処分であると主張するので検討する。

被告人の身柄を拘束するに際しては、前記のとおり、適法な手続を経て逮捕状、勾留状が発付され、右の勾留の裁判に対する準抗告審は、「その背景に複雑な事情も存する事案であるところ、右事案の内容・性格、現在までの捜査進展状況、被疑者と被害者らとの関係、被疑者と関係者との間の供述齟齬状況、本件犯行後逮捕されるまでの被疑者の関係者に対する接触状況(いやがらせを執拗に繰り返してきたこと等)などを考慮すれば、被疑者を現段階で釈放するときは、関係者に働きかけるなどして、犯罪の成否・軽重にかかわる重要な事実について罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があると認められる。」「被疑者の身上・経歴、生活状況、任意出頭に応じなかった経緯などに照らせば、被疑者には逃亡すると疑うに足りる相当な理由も認められる。」と判断して準抗告申立てを棄却し、被告人を勾留した原裁判の判断を是認しており、さらに、勾留取消請求が却下されたことに対する準抗告では、勾留の裁判当時認められた逃亡のおそれ、罪証を隠滅するおそれは消滅しておらず、勾留を継続する理由と必要があるとの判断のもとに準抗告申立てが棄却され、これに対する特別抗告も棄却されたほか、さらには、勾留期間の延長を認めた裁判に対する準抗告審においても、申立てを棄却するにあたって被告人には罪証隠滅のおそれや逃亡のおそれが依然認められると付言し、右決定に対する特別抗告も棄却されるなどの経過を経て、被告人に罪証隠滅のおそれ、逃亡のおそれがあるとしてその身柄を拘束し、これを継続したことについては、幾度もの司法審査を通じ一貫して是認されているところである。

証人渋谷も、公判廷において、一件記録には、被告人の住民票はあったが、その居住実態は不明であったので、一一月下旬ころ新潟地検に共助の依頼をし、その回答があったのは一二月中旬ころだった。被告人が、関係者と通謀し、または関係者に圧力をかけるなどして罪証隠滅のおそれがあると判断したことについては、被告人がその友人F某や前記丙川マンションの管理人Jに対して民事裁判での偽証等を働きかけていたことが窺われたこと、B子に対しては、平成七年五月一八日に小倉に届いた被告人からの手紙の記載等から、被害を取り下げるよう働きかけるおそれがあったこと、C夫妻に対しては、これまでにも嫌がらせ電話等があったとの報告を受けていたことから、精神的に圧力をかけて、その当人らが目撃した状況等に関して、真実を話すのに逡巡させるような心情に追い込む行為をするのではないかというおそれがあったこと等から判断した。逃亡のおそれについては、被告人が転居するに至るまでの捜査の経過、すなわち、警察官からの任意出頭の要請に対し、被告人は居留守を使ったり、忙しいからだめだ、逮捕でも何でもしろというふうに言って、電話を一方的に切ったこと、警察官は、五月一七日と六月の上旬にそれぞれ呼出しはがきを出したが、二回目の時にHから、弁護人が立ち会わなければ取調べに応じないとの連絡があり、結局被告人は出頭しなかったこと、前任の検察官が呼出しはがきを出したところ、Hから、弁護人抜きでの取調べには応じられない、その指定された取調べの日には、弁護人の都合が悪いので、被告人も来ないだろうという連絡があったこと、その月に、被告人が新潟に転居したことという一連の経過と、新潟に転居した後も職を変えるなどして定住性、安定性が必ずしもないことから、逃亡のおそれも認められると判断した、被告人の所在不明や関係者に対する嫌がらせの事実を捏造して逮捕状や勾留を請求したことはないと証言しているところ、右証言内容は、被告人も、FやJに接触したこと、C方に浦和警察署のKと架空名を名乗って電話をかけたこと、小倉からの任意出頭の要請を拒否し、居留守を使ったり、「逮捕でも何でもしろ」と言ったこと等の事実を認めていること等に照らし、十分に信用できるから、被告人の逮捕・勾留にそれぞれ理由と必要性があったことは優に認められるところであり、違法なところはない。所論は理由がない。

三  本件公訴の提起が訴追裁量を逸脱した違法であるとの主張について

1  前記認定のとおり、被告人は、B子の肩を押して床上に押し倒し、仰向けの状態に倒れた同女に馬乗りとなり、殆ど無抵抗の状態にあった同女に対し、一方的にその顔面を手拳で多数回殴打し、棒状のものでもB子の体を相当の回数強打したこと、B子がコンタクトレンズをはめているから目はやめてと言ったこと、被告人がB子のパンティーストッキングやパンティーを無理矢理脱がせたこと、被告人がB子の勤務先に電話をかけるため階下に降りた時にB子はスカートの下に下着を付けないまま二階のベランダから脱出し、裸足に靴を履いた状態で自転車で逃げたこと、被告人は逃げるB子の後を追いかけたこと、B子は当日夜被告人方に置いてきたかばんを取りに行く際にとても一人では行けないとして警察官に同行を求めたこと等が認められるのであって、本件暴行の態様は強度かつ悪質であり、暴行自体から見ても当然相当重い傷害の発生させ予想される事犯であることが明らかである(関係証拠によれば、当初傷害事件として逮捕・勾留されたが、傷害を立証する証拠が不十分であったことから暴行の限度で起訴されたことが認められる)。

2  ところで、弁護人らは、本件は「夫婦喧嘩」として大がかりなものの範疇に含まれることは確かであろうが、被告人とB子との間には、大がかりな夫婦喧嘩に発展することを予想させる抜き差しならぬ事情があったのであり、この事情を抜きにして、公判請求が当然かどうかを論じることは全くナンセンスである等と主張するので、本件の背景事情について更に検討を加える。

被告人は、本件犯行に至る経緯等について、次のように供述している。すなわち、平成六年七月の中旬くらいからB子の生活に変化が表れ、帰宅時間が一一時、一二時になり、朝帰りも何度かあったが、B子は、同僚のL子と一緒に飲みに行った、あるいはL子の家に遊びに行って遅くなった、朝帰りしたときはL子のところに泊まったと言っていた、同月三一日の夜、B子が夜一二時頃帰ってきたので口論となり、自分はちゃぶ台を引っ繰り返した。その翌日にB子はこの家を出ると言った、その一週間ちょっとくらい後くらいに、B子が武蔵浦和の近くの不動産屋を通して丁原アパートを見つけたという話を持ってきた、八月一一日、B子は、Mちゃん(M子)のところに、二日間泊まりにいってくるからと言うことで、E子を連れて、忙しそうに出ていき、一二日か一三日の夕方帰ってきた、八月中旬ころ、電話台の下の小さなミニボックスから、成田のビューホテルのランチタイムの「領収書」(日付欄に94年08月12日と記載されている)が出てきたので、Mちゃんのところに行くと言うことで泊まったのに、どうして成田ビューホテルのプールサイドのバイキングコースの領収書があるのか疑問に思い、これは何だとB子に示したら、お客さんを成田まで送って行ったときに御一緒して御飯を食べたというふうに言っていた、B子は八月二〇日家を出たが、その日の午前中に、Nを連れて後楽園にサーカスを見に行ったが、九月に入ってから、Nから、お母さんが、ひげの、はやしたおじさんと話していたと聞いた、B子が家を出た翌日、B子の行ってた武蔵浦和の近くの不動産屋に行き、私の妻であるB子が、お宅の不動産で、アパートの入居契約をしましたかと聞いたところ、入居契約書を見せられ、保証人欄に義理の兄、Cという名前を見た、不動産屋が入居申込書に書いてあったCの事務所の電話番号をメモして渡してくれたので、二二日の朝一番に、それを見てCの事務所に連絡したところ、従業員のOが出て、社長は不在だと言うので、後で社長から私に電話してほしいと同人に伝えたが、Cからは連絡はなかった。同日B子の勤務先にも電話して、アパート入居申込証にCという名前があった、それでCと、あなたの関係はどうなんだということを聞いたら、B子の答えは、Cについては、私の最も親しいお友達だということだった、八月の末ごろにL子の息子から、うちのお母さんが、Aさんの家にいないかという問い合わせの電話があったことがあり、そのとき、うちの家内が、いつもお宅に寝泊まりしているらしいけども、お世話になってますということを、息子にお礼を兼ねて話したところ、息子は、いや、Aさんの奥さんは、うちに一度も泊まったことはないということを、言われ、従来、B子は外泊するときには、L子のところに泊まったという報告をしていたが、それがうそであることがわかった、その後台所の食器棚を整理していたら、その引き出しの中から、成田ビューホテルのクーポン券の申込書、成田まで行く地図、成田ビューホテル以外のビューホテルのパンフレットなどが入ったJTBの封筒が出てきた、B子は「ご宿泊申込書」「ご旅行代金内訳書」にあるPなる人物と、不貞、不倫の関係というのはあるなと、思った、PがCのことであることはB子の手帳を見て知っていた、平成六年八月一一日という日付にもぴんときた、成田ビューホテルに電話をしたら、宿泊した部屋は九階の三三号室で、新館でダブルベッドということを教えてくれた、宿泊申込書などを発見した数日くらいあと、八月一一日の件につき、M子に電話をし、八月一一日にB子は、Mちゃんのとこ、泊まったかどうか、まず聞いたら、うちには来なかったと思うと言い、その日、MちゃんはB子と一緒に、成田ビューホテル、行ったかということを聞いたら、いや、私は行ってないという答えが、返ってきた、その後、成田ビューホテルの件について、B子自身に尋ねたところ、B子は、Mちゃんと行ったと言い張り、Mさんには行ってないということを確認済みなんだということを言ったが、Mちゃんは行ったんだけど、いちいち聞かれるのが面倒くさいから、行ったんだけども、行かなかったんだというふうに答えてるんだ、私のことを信じてくれ、Mちゃんが言うのと、私が言うのと、あなた、どっちを信じるのと言われた旨述べている。

ところで、被告人は、Pなる人物と、不貞、不倫の関係というのはあるなと、思った、また、B子が、成田ビューホテルにはMちゃんと一緒に行った、自分を信じてくれと言うのを聞いても、信じなかった、明らかにうそをついてると思ったなどと、B子がCと共に成田ビューホテルに行き、同人との間に不貞関係があるとの疑念を抱いていた旨述べているところ、右成田ビューホテルの件については、B子は、第三回公判で、成田ビューホテルにはCと行ったのではないと証言しながら、第一三回公判でCにホテルまで車で送ってもらったと供述を変更し、同様にCも、第四回公判において、平成六年八月一一日にB子と成田ビューホテルに行ったことはない、平成八年六月二四日付弁護士法二三条の二に基づく照会回答書(成田ビューホテルの宿泊者カードのコピーが添付されたもの)にある「P」という名前は自分が書いたのではないと証言しておきながら、第一三回公判では、B子を車で成田ビューホテルに送り、ホテルのフロントまで行き、自分がチェックインの時に記入する宿泊者カードに書いて、ロビーの喫茶店で、お茶を飲んだ後、そのまま帰ったと供述を変更していることが認められるのであって、B子とCとの関係について所論指摘のように親密な関係にあったことについては、事柄の性質上当事者が認めるなどの事情がない限り確定することは困難と言わざるを得ないが、不明朗ないし疑わしい点があったことは否定できず、被告人がB子の不貞を疑ったこともそれなりの理由があったというべきである。

しかしながら、被告人の述べるところによっても、被告人は本件一〇月六日当時、B子がCと一緒に成田ビューホテルに行ったことや両名の関係につき、疑わしいという以上の認識は有していなかったものと認められる。すなわち、前叙のとおり、被告人は、当日、B子から成田ビューホテルの件や八月二〇日以降の泊まってる場所などについて聞く目的で、二階に上がり、最初は、普通の会話で、話をしたが、B子が、余りにも、うそばっかりつくので、つい興奮した、うそばっかり言ってないで正直に答えろと彼女に迫ったら、私はうそは言ってないと、私の言うことをどうして信じないのかということを、逆に責めるような形で言葉を返してきたので、結局、それで、手を出した、殴った最初のときのきっかけというか、動機については、私に対して、うそをついているというのは、非常に許せなかった、殴るのをやめたのは、殴ったところで、B子が口割るわけがないし、暴力に訴えても、どうしようもないなというふうに、自分自身、たたくことに、むなしさを感じたので、やめたなどと述っているものであって、本件暴行の直接の動機は、B子の不貞の事実そのものというより、B子が被告人に対して虚言を構えて開き直ったその態度にあったと認められる。そして被告人が、自分の追及に対するB子の態度に激昂して短絡的に暴力に訴え、前認定のとおり執拗かつ強度の暴行に及んだことについては、当時B子に対し不貞の疑いを抱くについて理由があったことを十分考慮しても、社会的に許容される限度を超えた違法性の高い犯行であることは明らかである。所論は理由がない。

3  また弁護人らは、本件捜査・訴追は、検察官によって弁護人の弁護活動及びミランダの会の活動を妨害することを目的としてなされたものであると主張するが、既に検討したとおり、本件による被告人に対する逮捕・勾留を含む捜査の過程に違法はなく、また、本件は公訴を提起するに相当な事案であるが故に公訴提起されたことが明らかであって、本件全証拠を検討しても、検察官が所論指摘のような意図を持って公訴を提起したものとは認められない。(なお、被告人が本件で正式の公判請求されるに至ったについては、本件自体の既述のとおりの犯情の悪質性のほか、被告人が拒否したため、被告人からの事情聴取ができず、そのため改悛の情など通常被告人にとって有利と思われる証拠の収集も十分できないまま公訴の提起をせざるを得なかった旨渋谷が証言しているように、被告人が弁護人の立会いがなければ取調べに応じないとの態度を明らかにしたことから、捜査官において、特に本件に至る経緯ないし動機に関し被告人側からも事情を聴取し、事件の真相を吟味していくという作業がほとんどできなかったこともその一因となっていると言うべきである。右のような事態は、捜査官からの任意出頭の要請等に対してこれを拒絶し続けた被告人自身の姿勢、態度がもたらした結果ともいえるが、前述の捜査の経過等に照らせば、被告人に対する取調べに弁護人の立会いを求めることを助言し続けたHの活動のあり方にその原因があったことは否定できない。この点につきHは、証人として、被告人に対し、私の意見として、取調べに私が立ち会うのが一番いいだろう、立会いを、警察や検察庁はすんなりとは認めないだろう、しかし、立会いの上で、取調べを実現したことが、自分自身経験があるし、最近、その種の事例も徐々にではあるけれども、増えている、自分としては、そのような方法で取調べをしてもらうのが一番よいだろうと思っていると説明し、それに対して、被告人のほうは十分了解してくれて、それでお願いしますということであった旨証言している。しかし、右のような被告人、弁護人の対応は、弁護人の立会いが認められなければ結局取調べを拒否するというものであって、その当否はさておき、依頼人である被疑者、被告人による解任又は弁護人自らの辞任の意思表示により、以後の責任と事件とのかかわりが法的に一切終了することになる弁護人とは異なり、当該事件について終局に至るまでの捜査、訴追、公判維持等に関する権限と責任を国民から付託された警察官及び検察官においては、もとより被告人(被疑者)及び選任された弁護人の意向・立場にも十分配慮し行き過ぎのないようその職責を遂行すべきことは当然であるが、職責を適正かつ迅速に果たすため、所定の要件の存在と手続を経た上、被告人(被疑者)及び弁護人の意向に反してその職責を完遂することも、刑事事件の性質上法の当然是認するところである。就中、捜査段階は、時間的制約、関係者の移動、証拠の変容等に照らし、たえず事態の変動の可能性をはらんだ具体的進捗状況の中で、臨機にかつ時機を逸さず証拠の収集と事案の解明に臨まなければならない状況下にあり、しかも、弁護人において被疑者が弁護人の立会いを求めた時にいつでも直ちにこれに応じることのできる体制にあるとは到底認め難い現状--H自身も、本件で被告人が警察官からの呼出しを受けた際、仕事上の差し支えのため出頭できなかったと述べている--の下にあっては、その必要性は大であるというべきところ、本件逮捕及び勾留、公判請求については前叙のとおりいずれも相応の理由が存在し、所定の手続を履践した上で行われることが明らかであって、違法はない。Hは、すべての事件について、弁護人が立ち会わなければ、取調べは許容されないというわけではないと述べているところ、関係証拠からみて被告人が暴行の事実自体を認めている本件において何故に弁護人の取調べへの立会いを求めこれに固執しなくてはならなかったのか理解しがたいが、Hは、取調べを、あるいは出頭を拒否しているうちに逮捕されるのではないかという危惧は、このケースについては、私は全く危惧していなかった、いずれかの段階で、私が立ち会って取調べを受けることになるだろうというふうに、私は予測していた旨述べ、他方本件では前叙のとおり、それぞれ十分な理由と必要性があって適法に逮捕・勾留され、公判請求されていることを考えると、Hも自認しているように、明らかに甘い見通し、判断であったといわざるを得ない。そして、右の予測に反して被告人が逮捕された後も右方針を貫いたことについても、Hは、Aさんは「ここで自分が負けたらH先生がだめになっちゃうから、先生のためにがんばりますと言ってくれました。だから、それで行くしかないと、私は思いました。」「A氏が逮捕されたことによって、私が弁護方針を変えたとしたら、これは、私の敗北を意味しますから、それはできないと思いました、そして、A氏が、私のためにも頑張ると言ってくれた以上は、私には頑張り抜く責任があると思いました」と証言し、被告人も、子供たちがつらい目に遭うことを度外視しても闘うつもりだったのかとの問いに対し、渋谷検事から取調べの際に、君も社会人であり、大人の知恵を持っているのならと甘い言葉もかけられましたが、裁判では、弁護人との信頼関係を第一に考えましたと供述しているものであって、Hの意向が相当強く反映されていることが認められる。Hが、一方で弁護活動は被告人のために行われるべきであると述べながら、他方では右のように述べて本件の帰すうを弁護人としての勝利ないし敗北として位置づけ展開してきた本件弁護活動の当、不当はさておき、そのことが一因ともなって、被告人が本件で弁護人に真に期待したところが奈辺にあったかはいざしらず、被告人に対する身柄拘束の理由及び必要性が解消されず、また捜査官において被告人側からの証拠の収集も十分できないまま、結果として、長期間身柄を拘束され、公判請求されるところとなったものと言わざるを得ないから、弁護人らがこれらの事情を不問に付して本件を専ら検察官による弁護人及びミランダの会の活動に対する報復と論難することは本末転倒と言うほかはない。)

所論はいずれも採用できない。

四  以上の次第で、本件捜査並びに公訴提起には何ら違法は認められず、本件公訴を棄却すべきであるとの弁護人らの主張は採用できない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 羽淵清司 裁判官 小池洋吉 裁判官 藤井澄子)

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